要る知識と要らない知識

私は今凄く悩んでいる。

それは、必要じゃない、むしろ入れない方が良い知識が存在するのではないかと考えたからだ。

 

何故こんな事を言い出したかと言うと、今四文字熟語辞典が無性に読みたいからである。

でも、四文字熟語辞典に書いてある事は科学的根拠が無い。

例えば、「因果応報」。

意味は「良い行いをした人には良い報い、悪い行いをした人には悪い報いがある。」らしい。

正直、こんな熟語は当てにならないだろう。実際に当人に因果応報が起こった時にようやく証明される事であり、起こる前に必ず因果応報が来るよなんて言えないのだ。

 

もし四文字熟語に読み耽り、私がこの熟語達を鵜呑みにしてしまった場合、訳の分からない事を言い出す可能性が高まるだろう。もはや因果応報なんていう熟語はオカルトに近しい。

 

でも、もう一つの可能性も考えた。それは、私の趣味である「つまらない動画でも一話だけは見通す事」から導き出された可能性だ。

そもそも、最初からその熟語達を鵜呑みにしなければいい。

「そういう時もあるよね~。こういう考えもあるよね~。」って、色んな可能性を考慮した上で、盲信するのではなく知識として取り入れる方法。

 

ただしこれには大きな欠点がある。キャパシティだ。脳のキャパオーバーになった瞬間、私は盲信に走り、一つ一つの熟語に秘められた矛盾点を探さなくなる。面倒だからだ。

ならばいっその事、四文字熟語自体頭に入れなければ良いのではないかという思考に至る。

けれど、読みたい。何故なら色んな考えに触れたいからだ。

私は視野が狭いのかもしれない。そもそも因果応報という熟語があるのなら、因果”無”応報という熟語もあるに違いない。

私は特例だけを出して自分の考えを正当化しようとする愚か者だったのかもしれない。

 

悩む。

でも正直、読んだ後の私の思考が偏るリスクより、読んだ後の私の思考の変化に対する好奇心が勝ってる。

何事も経験だって…知識は裏切らないって…。分かんないけど…でももしかしたら要らない知識もあるかも…。難しい。

 

てか好奇心高めたいし、結局色んな知識に触れる過程で、ある程度頭おかしくなるのは仕方ないから、もし頭おかしくなったとしてもそれは過程って事にすればいいんじゃねっていう。

おやすみ~