自己啓発書と論文信者が嫌われる理由

自己啓発書や論文はあくまで知識の提供に過ぎず、過大評価をしてしまっている人が見受けられる。

知識を受け入れるのは良いが、身についていなければ机上の空論と化す。

要は、意識高い系の無能になるのだ。

 

では、意識高い系の有能になるにはどうすればいいのか考えてみよう。

答えは簡単。自分のスキルを上げればいい。

だが、それが辛いのだ。だからこそ、地道に上げたスキルは価値を生み出し、

そのスキルが欲しいと言う人が出てくる。

しかし、そのことについて理解していないと、銀の弾を探す信者が現れる。

これが、自己啓発書と論文信者が嫌われる理由である。

 

結局、私達の過去を思い返してみると、知識はいつだって自分が行動を起こして

使ってやらないと効力を発しなかった。

また、過去の成功体験を思い出してみよう。

そのほとんどが、自分の”行動”があってこそ生まれた成功ではないのか?

 

嘆くだけなら誰でもできる。しかし、市場は誰でもできることに価値を見出さない。

私たちは、色々な知識を手に入れられる現代に生きているからこそ、

それらとの向き合い方や、有益にするための活用方法を模索するべきである。

 

私たちは、”時間”をかけてやることでしか成長できないのである。

効率性は重要だ。時間の節約に繋がるから。

でも考えてみてほしい。

どんなに効率性を追い求めたところで、結局”時間”は使わなければならない。

この当たり前なことから逃げる人間は、一生成長できないであろう。

今まで身になったこと

・luluさんとの出会い

・塾講師1年半

・英語をなんだかんだ続けている、厳選された参考書大量、リスニング、TOEIC受験

・感情言葉辞典の言葉全部覚える、漢字検定準2級

・赤ん坊時代から家庭崩壊、ネグレクトの経験

・暴力や窃盗やいじめをしてデメリットを知った経験、いじめられて感じる不快感の経験

不登校のデメリットとメリットが知れた経験

・数歳からパソコンを自由に触らせてもらえた経験

・栄養学

・プログラミング(python,java,dart,html,css,,,,,その他少しだけ触れたc言語)、ウェブサイト作成、スマホ用のソフトウェア作成

・デザインの勉強、色彩・配色、構図、フォント

・マインドフルネス…?まだあんまりやってない

・どのような形でも知識は裏切らないという経験

・好きなことじゃなくて、自分の得意なことをやった方が上手くいく経験

・身近なうつ病や精神病に対する知識

・身近な死に対する意識、死ぬまでの時間の意識

・嘘をつくことについて、相手と自分のデメリットを知った経験

・人間関係は関わる人間を選ぶことで苦労が減ると知った経験

・自分がどういう性格の人間なのか見つめなおして把握する

・できる限り自分の要望を無視しないことのメリット

・猫や動物を飼う

・洗濯乾燥機、食洗器、ルンバ、猫トイレ自動機、自動給餌機、電気ポットなどの自動化、IoT化によって時間を稼ぐ(猫や観葉植物の自動給水機、自動カーテン開閉機、電気のオンオフIoT化、施錠のIoT化もしたい...)

・旅行や遠出で色々な街の雰囲気を知る

・友人と話す

・共同で仕事をする苦悩の経験

・時間をかけることが技術の上達につながると知った経験

・尊敬されると予想以上に自由に動けると知った経験、責任感や重圧感や焦燥感

・大切な人を大切にすることの大切さ

・必要な意見と必要じゃない意見を分ける(自分に都合が良い意見に偏るけど)

・他人と比較しないことのメリット

・暗い所で暗い物を見て目が痛くなるまで疲労させると、視力が悪くなると知った経験

・ニキビはほぼ枕が清潔かどうかで決まると知った経験

・本腰で取り組まないと基本的に無駄な時間になると知った経験

脳みそ

多分、みんな同じだと思うんだけど、

大体の人は、脳の容量がある程度決まっている。許容量以上の情報量を処理しようとすると脳が痛くなって考えるのを止める。か、時間を存分に使って考える。か、紙に書き出して脳の働きの補助をする。

 

脳が痛くなって考えを止めた時、脳にストレスがかかっているから発散するために怒ることもあるだろう。高齢者によくある脳の働きな気がする。(偏見)

 

このブログで話したいのは、脳の容量オーバーが起こった時、自分でオーバーを察知できないと想像以上に辛い目にあうということ。

例えば、自分の脳の容量を考えながら過ごすのはかなり面倒だし、誰かと話している時によくよく考えたら相手の方が正しい意見を言ってるなんて考えるのはかなり苦痛だし、瞬時に自分が考えた答えを正しいと思った方が、時間的にも使う脳の容量的にもかなり効率良く思えるし楽なのだ。

 

これを繰り返すと何が起こるかというと、

老害”になる。

 

つまり、脳の容量が分からず、自分が思考放棄してることにも気づかず、一瞬の快楽を得る”老害”になる。

しかし、老害的思考は基本的に現代と合わない。

現代人が力を持った時、まず初めにその思考が淘汰されるだろう。

  

  

なんでこのブログを書いたかというと、

自分がまさに思考放棄に走ってしまう脳みそを持っているからである。

嫌なことは嫌だし、辛いことは辛い。投げ出したいし、逃げたい。楽したい。

でも、その老害的思考に何も考えを持たなかったら自分が堕落するのは分かる。

あたかも、簡単なことを難しそうにやって、自分はやっているんだ。自分は大丈夫。自分は悪くない。という思考になるのはわかる。

(今の自分は、相手目線では確実に悪いことをやっている自覚があるけど、自分自身が悪いと思わないからやるっていう自己中スタンスだけど、これは老害なのか。悪いって認めてるのにやる方がよっぽど悪いのか。その相手とは人生の中で一切関わりたくないから、相手も自分も平和だと思うんだけど。

もしも関わりたくない人と関わらなきゃいけない仕事に就くなら、自己中がデメリットになる。ということだと思っている。)

全て繋がってる?

努力したものは、案外色々なところに影響をもたらしている気がする。

 

例えば、政治の勉強をする。確かに今の経済や政策なんかの知識が蓄えられるかもしれないが、TikTok中毒の高校生が政治の勉強をしたところで、周りにはそんな話ができる友達は居ないだろう。

 

しかし、社会に出た時、新しい環境に身を置かれた時、その政治の勉強をしていたお陰で社長と雑談をする機会が得られたら、ある程度意味があった努力なんじゃないかと思う。

 

自分がした努力が、今まで何にも生かされなかったことはあっただろうか。

ゲームだって、TikTokだって、熱を入れれば友達が増えたんじゃないのか。

確かに努力の方向性はその人の人生を変えるが、既にやった努力は色々な方面に役立っている気がする。

バカ2

自分がバカだと気づくのには結構時間がかかる。どういうことかというと、自分は何が出来て、何が出来ないのかを知るのにはかなり時間がかかるということだ。

 

そもそも、自分を分析するのはかなり面倒くさい。何故なら、固定概念の中で生きていられれば楽だからだ。これをすれば成長できる。これをすれば失敗する。これをすれば何とかなる。

でも、実際にはそうじゃない。

固定概念なんて、個人レベルではほぼ役に立たない。

例えば、“数学ができる人”は頭が良い。という言葉があったとする。それを鵜呑みにして、数学を勉強したとする。では、自分は数学が“得意”なのか?と聞かれたら、全員がはい。とは答えられない。何故なら、人間の脳みそはみんな構造が違うからである。その全員の中に数学がずば抜けて得意な人もいれば、この世の行動の中で一番数学が苦手な人もいる。この一番数学が苦手な人が、頭が良くなりたくて数学をやったところで、出る成果などたかが知れている。つまり、世間一般の固定概念というのは、あくまでその時代の流れの中で作り出された“流行り”みたいなものであって、個人レベルでその固定概念を鵜呑みにしてしまうと、不得意なことまで、その通りにやらなきゃいけないような気がしてしまうのだ。これは効率が悪い。

 

結局、私たちが個人レベルで成果を出すのであれば、その個々人の性質に合った、その個々人の人生に合った、その個々人の環境に合った作業をしなければならない。

 

大企業の社長が、「数学が得意なやつは頭が良い。」というのは分かる。なぜなら、この人は数千人〜数万人の人間を選別しなければいけないからだ。大規模になれば、その固定概念は通用する。しかし、個人レベルの人が「数学が得意だと頭良いし、かっこいいから数学やる!」ってなっても、社会全体でみたら効率が悪いのだ。そして、社会全体でみて効率が悪いのだから、個人レベルでもそのしっぺ返しを食らうだろう。

 

私たちは、私たちが“得意”な仕事を見つけるべきである。

好きなことは、得意なことをやって、余裕が有り余るほどできたら、好きなだけやれば良いのではないのだろうか。

あるいは、自分が幸せと思えるのであれば、低所得でも、長時間勤務でも、好きなだけ好きなことをやれば良い。それがあなたの幸せなのだから。それすら自由なのだ。人はそれぞれ違うのだから。

バカ

バカって一括りにするのは簡単だけど、何がどうバカなのか。どの点に置いてバカなのか。何が知らないからバカなのか。何が出来ないからバカなのか。“バカ”という言葉は結構簡単に見えて奥が深い。

例えば、「あいつってバカだから仕事できないよな。」という言葉があったとする。話し手はきっと、そのバカと関わって、こういう所が上手く出来ないというのを直感で分かって、それを言葉にするのが難しいから“バカ”という一言でその人を簡単に総称している。しかし、これを聞いた時に、その人の何がバカなのか。どの点に置いてバカだから仕事が出来ないのか。そこまで理解すると、自分への吸収にも繋がるんじゃないかと思う。また、自分がそう言われた時に、どうしてこの人は自分のことをバカだと言ったんだろうと冷静に考えてみるのは発見に繋がるかもしれない。大抵の場合は、関わる必要がないので聞くメリットはあまりないが、もし話し手側が思慮に欠ける人であっても、一人の人間が考えてその結論を出したのだから、微々たる発見には繋がるかもしれない。

世の中にはいくつものルールがある。これらのルールの中には、守らなくても罰せられないものがある。歩行者が赤信号を無視したところで、罰せられる確率など無いに等しいだろう。しかし、軽度なルール違反なのだ。このような事象は様々な所で起こる。人間関係で例えるなら、いじり。コミュニケーションにおいて、人を傷付けるというのはマナー違反とされる。しかし、いじりは軽度に人を傷付けるため見過ごされる。そこをわざわざ指摘する人はあまり居ない。つまり、この世の中のルールはかなり曖昧なのだ。当人らの利害や立場の違いなどによって、ルールを守らなかったときに罰せられるか罰せられないかが決まる。人を車で轢き殺したとしても同じことが言える。戦争というほぼ無法の大義名分があれば良いのだ。ルールは時と場合によって変わるし、それに伴って罰の重さや有無も変わる。ルールはあくまで守る側の人間がそれを守るかどうかを決めてから守るものであって、必ずしも守らなければならないものではないからだ。しかし、ルールを破るということは、それに伴うデメリットがあるというのは分かるだろう。つまり、守る側の人間は、そのデメリットとメリットを見比べて守るかどうかを決めているのだ。守る側が死守したいことがあれば守るだろうし、どうでもいいことなら守らないだろう。

 

ただ、基本的にはルールは守ろう。なぜなら、大抵の場合がメリットよりもデメリットの方が多いからだ。今まで生きてきた人達が作ったルールなのだから、もし守らなかった場合、自分が全く想定していないデメリットに出くわす可能性がある。それすら経験にかえるならいいのだが、死んだら元も子もない。ルールは守ろう。以上。