全ては物質であり、全ての行動には理由がある。

全ての行動や感覚には理由がある。

過食、倦怠感、苛立ち、自信の喪失、謙虚、恐怖、疲労、厄介な物事の後回し。

なぜなら、今手に持ってるスマホや目の前にあるパソコンと同じように、人間の脳みそも物質で成り立っているからだ。

つまり、その煩わしさは”無くす方法”がある。

 

人々が漠然的に空想する”幸せ”というのは、漠然的だからこそ「空想上の手に入らない物だ」とか「辛いのが人生だ。当たり前だろ」と言う。

でもよく考えてみて欲しい。そもそもその漠然とした”幸せ”とは何なのか?

その答えは「物質」だ。もっと分かりやすくいえば「体から分泌されるホルモン」だ。

私達は理論上、”幸せ”を手にすることが出来る。

(ここまでがmaru宗教活動  完)

 

 

幼少期からこの世の物は全て物質であると理解していたが、最近は脳みその使い方が上手くなってきたのか、その真実がより具体的に理解出来るようになり論理的な思考を手にし始めたように思える。

 

今思えば以前の私は脳みその使い方を知らず、というか脳みその構造を知らずに鞭を叩いて働かせていた。子供がパソコンを開き、何時間もローマ字表を片手にローマ字を打っている感覚だ。それでは効率が悪いのは明白だろう。

パソコンをより効率的に扱うには、扱う人間の知識が関わってくる。

そして、扱い方を知れば知るほど、より時間短縮になり、より行動力が増す事を知る。

 

これからも実験は続けていく。既に自身の過去と現在を見比べると良い傾向にあるが、確実に壁にぶち当たる時が来る。それは、私の知識が無下になる時か外的要因によるものだ。

 

(余談:なんだか最近、この考えがうぬぼれなのか実際に賢くなってきているのか分からなくてとても不安な気持ちになる。私は無知だから過去の自分と見比べた時に賢くなっているのは明白だけど、他者と見比べようとするとキリがなくて仕方ない。なぜなら他者間の思考力には天と地の差があるからだ。上を見れば見るほど賢い人間がいて、下を見れば見るほど愚かな人間がいる。だからこそ他者と自分は違う人生であり違う存在であるという事を認識して、比較癖は止めて、過去の自分とだけ睨めっこしていれば良いという学説があるのかもしれない。)